本書のタイトルにある「クラインの壷」とは、境界と表裏の区別を持たない2次元曲面のこと。表にいたつもりがいつの間にか裏になりその境界線も分からないという、3次元空間では再現不可能な立体です(詳細はWikipediaをご覧下さい)。本書はまさにこの「クラインの壷」のようなバーチャルリアリティシステムを軸に物語が展開していくミステリー小説です。
あらすじは…
ゲームブックの原作の公募に応募したことがきっかけで、バーチャルリアリティシステム「クライン2」の実証実験に携わることになった青年・上杉は、謎に包まれたゲーム開発会社の研究所で日々テストプレイヤーとなって仮想空間に没入する。しかしある日、アルバイトとして同じくテストプレイヤーをしていた専門学校生・高石が何の前触れもなく失踪してしまう。不審に思った上杉は高石の学友だという少女・真壁と共に独自に「クライン2」の周辺を調査し始める…。
本書は1996年にNHKでドラマ化されているので、もしかしたら覚えている人もいるかもしれません。当時はまだ未知のものだったバーチャルリアリティと仮想空間がモチーフになっており、表と裏の境界がない「クラインの壷」同様に、物語が進むにつれリアル(表)とバーチャル(裏)があいまいになりどちらがどちらだか分からなくなっていく様子が描かれます。
「クライン2」は意識ごと仮想空間に”没入”するタイプの装置で、一度入ってしまえばそこには視覚、聴覚、味覚・嗅覚、その他全ての感覚を完全にリアルに再現した世界が広がります。実験ではゲームシナリオを再現した”ゲーム”の世界に入るのですが、後に謎の失踪をすることになるバイトの高石は、ゲームを進めることよりもその過程で「人を殺す」ことに面白さを見出していきます。そして高石の代わりに来た別のバイトは「これでアダルトゲームを作れば儲かる!」と提案します。この2点は特に話の筋には大きく関わらないのですが、「仮想空間」の可能性を知った直後の人間の姿をよく表しておりなかなか興味深いです。人間が新しい技術に触れたときにまず思いつくのは「エロ」と「バイオレンス」だというどうしようもなさ。読み進めるうち、「今読んでいるのは現実世界の場面か?それともバーチャルの場面か?」と徐々にこちらまで区別がつなかくなり、何度も前のページを読み返してしまうところが多数あり妙なシンクロ感が味わえます。伏線の張り方とその回収も見事で、謎解きの場面もスピード感があって一気に読めてしまうので確かにミステリーとして面白い作品なのですが、背筋の寒くなるような”没入”の恐ろしさの描写も素晴らしく、読みようでは「ホラー作品」とも取れます。
ラストの場面ははたして現実だったのか?それとも仮想空間に入ったままだったのか?最後まで後を引く印象的な作品です。